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今年5月いっぱいで廃止が決定した大分県「中津競馬」。それについてレポートししている。 まあレポートといったところで、レポートでもない。単に思い出話。行っておいてよかったという自己満足。 「中津」は、全国地方競馬26か所のうち、いわゆる「ひなびた度」は島根・益田に次いで高い。たとえばテレビ東京あたりの番組で、露天風呂にマイクを持ち込んだお姉さんなどがよくいいますね。 「いいですよぅ・・・のお湯は。体も心もリラックスするようで…」。 同好の士にとって、少なくとも「癒しの場所」ではあったわけだ。それがいきなり、役人の都合と体面だけで廃止になった。 博多から「特急ソニック」で、昼過ぎに中津到着とは前号で書いた。 ホテルでチェックインしたあと、ロータリーでタクシーに乗ると、それは女性ドライバーであった。30代後半だろうか、後ろ姿の肩口にちょっと哀愁をおびた、十朱幸代さんふうの美人である。 「競馬場までお願いします」と告げると、ふうっ・・・という感じで微笑した。 「何も見るもんなかとじゃけね、こん町は・・・」。 私はこういう響きの言葉を聞くと、いつもそれだけで嬉しくなってしまうのだが、まぁそれは旅行者の身勝手な感傷でしかない。 ともあれタクシーは出発した。 「福沢諭吉の名所なんかあるんだけど、お客さん行かんかい・・・」 約束もあったので、そこはあやふや笑いで辞退した。 「大分県」に関する知識がいっさいない・・・と、これは私のこと。 知っているのは九州の中ほどにあるということだけで、これは本当は、長年毎夜にわたり「いいちこ」を痛飲している者としては、情けない限りである。 沖縄はまあ別格として、はっきり地理を認識できるのは、最南端の鹿児島、北の福岡、西の長崎の3県だけ。 福岡はひいきのダイエーのホームであり、長崎は、恥ずかしながら20年前新婚旅行で行ったという経緯に過ぎない。ハウステンボスなどまだなかった時代である。大分、佐賀、熊本、宮崎の地図が、頭の中で混乱している。 女性ドライバーは急なカーブを切りながら、ときおり後ろの客席を振り返り、微笑など浮かべつつ話しかけてくる ( 少し危ない ) 。 「こん町はねぇ・・・。昔は農業も漁業も盛んじゃったけど、麦は安いし、米は減反。小魚はあまり売れんようになったから、いまなんとかなっとんのは、パチンコとスーパーだけじゃなか・・・」 いわゆる、地場産業がないということ。 島根・益田あたりもたぶん同じ状況なのだろう。若年層が定着するはずがない。というより、物理的にそうならない。だからその状況で、地元の人たちに競馬を応援してもらおうというのは、やはり相当な無理がある。 「ハイ、着いたよ。行ってらっしゃい…」 世間話の内容は少々深刻だったが、彼女自身の接客はあくまで明るく、それで旅行者も深く考えず車を降りた。その間10分ほどで千五百円。 さて、田畑の真ん中に忽然として現われた中津競馬場は、正直、言葉そのままの「草競馬」というしかなかった。 一周千メートルのコースは、荒涼として土埃が舞っている。馬場内に、とりあえず簡単にこしらえてみましたという池と噴水があったものの、他には飾りけがいっさいない。向正面から3コーナーにかけて、広大な麦畑が広がっている。 初秋の一日で、空はよく晴れていた。なるほどのどかだが、のどかすぎて、時間が止まってしまったような感覚にも襲われた。 先入観念ももちろんある。ただしかし、こういう状況では、レースもおおむねそう見えてしまう。 パドックを回る馬の毛ヅヤが、くすんでいる。出る馬、出る馬、みな体がポッテリして、およそサラブレッドという雰囲気がない。お世辞にも研ぎ澄まされてはいない競走馬が、のっそり、のんびり登場し、思い思いに走って、競馬が終わる――。 もっともこれは、何も事情を知らない外野がそう見えたということらしく、当時お会いした管理係・池園英樹氏は、こうおっしゃっていた。 「今月から、ファンのニーズで連単を開始しました。そうしたらそれが総売上げの半分だから、成功ですよね。いろいろイベント ( 中津ダービー馬当てクイズ )も考えていますし、ひとまず応援してください」 そのころ、中津競馬の「売り」といえば、小田部雪 ( おたべ・ゆき ) さんという女性ジョッキーだった。年間10勝程度で、成績からは中堅より少し下だが、当時21歳、細面のきりっとした美人で、レースぶりも常に強気強気のファイトがみえた。 「馬に乗っているときは女であることを忘れ、男の人と互角に追いたい――」 彼女に2歳違いの和磨 ( かずま ) という、実弟で、やはり中津のジョッキーがいた。 「姉ちゃんには負けてられない」が口癖だったという彼が、オートバイ事故で死亡したのは、それから1年後くらいだったろうか。 悪いこと、やるせないこととは重なるものだ。あくまで伝聞だが、以後彼女にもどこか精彩がないらしい。牧原Jら、女性騎手による「卑弥呼杯」も、昨年は自ら辞退したと聞く。 いま思えば、中津競馬全体に、試練とか、向かい風とかが多すぎた。 女性といえば、中津では実況アナウンスを女性が担当している。ただし委託を受けたプロではなく、「うわっぱり」を着た「事務のおばさん」。 何を置いても、経費削減。とりあえず、すべて自前でやろうという窮余の一策。そのとき、中で一番ベテランという植山ひろ子さんに話を聞いた。 「20年以上も前でしたね。もう数えたくないけど ( 笑 ) 。突然やれっていわれて、もう困った困った。先頭3番、そのあと1番、7番・・・。それだけ言って、冷や汗かいて。今は図々しく居直っていますけど・・・」 彼女は、JRA小倉競馬場へ「練習」に通い、そこで録音テープを借用したと言った。 実際に聞いた彼女の実況は、あくまで落ち着き払い、レース描写うんぬんの技術はともかく、開き直った安定感があった。競馬実況をまかされた――。最初の経緯と動機が、昨今アナウンサー志望の若い美女たちとは違うからだろう。 その98年9月某日は、「中津ダービー」がメインだった。むろん当地サラブレッド4歳 NO.1決定戦、いうところの根幹レース。 2番手から鮮やかに抜け出した「アンドロ」は、ひとまず当地生え抜きだった。父メジロライアン。小柄ながら、伸びと柔らかさが感じられる馬体で、追って重心の沈むフォームにも「血統」がみてとれた。 ただし、1着賞金80万円。 そう聞いて、改めて中津競馬の「窮状」を思い知らされたことでもある。中津の外へは、けっして広がっていかない競馬。それでも続けなくてはいけない競馬というもの――。ピラミッドの底辺とか、受け皿とか、やはり簡単な理屈や思いつきの言葉で、説明がつくはずもない。 中津競馬に携わってきたさまざまな人びと。いまはどんな思いを持っているか。 「その二」と題して書いてみたが、うまく話がまとまらない。この命題はたぶん、「競馬」というものが、誰のため、何のために存在しているのかというテーマに入っていくのだとも思う。 ともすると、ひとからげにされてしまう、いわゆるギャンブル産業。しかし競馬は、競輪や競艇、ましてや toto などとは、実体も成り立ちも大きく違う。結論を急げば、それは「第一次産業」だからだろうと思い当たる。 難しくなってきた。筆者には、正直手に余る問題でもある。この件に関してはもう少し時間をもって書かせていただく。 |