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南米文学の好きな人なら、ノーベル賞作家ガルシア=マルケスの著作物の一冊や二冊に目を通した経験をお持ちだろう。とりわけ名作の誉れ高い南米大陸を舞台にした一大叙事詩とされる『百年の孤独』は、何故かわが国の焼酎の銘柄にもなっていて、筆者なども日々愛飲させて頂いている。 そのマルケスと競馬という組み合わせは、ちょっと奇異な感じを与えるかも知れない。 南米コロンビアに生まれたマルケスは、欧州放浪を経て、1958年、30歳のときに、隣国ベネズエラに腰を落ち着ける。友人が編集長を務める首都カラカスの 「モメント」誌の記者として働くためだった。折りしもベネズエラでは6年間続いたペレス・ヒメネス将軍の独裁政権が意外な脆さを露呈して一気に崩壊。臨時政権が樹立され、民主政権への準備が進められていた。そんな激動時代に若き日のマルケスが記した情熱の迸るようなルポタージュの中に、当地の名馬がせり市に出場してきた折りのレポートが含まれているのだ。 では、早速、『セネガルの譲渡』(筑摩書房『幸福な無名時代』 所収・旦敬介訳)と題された一文から、さわりを紹介していくとしよう。 1958年5月、ヒメネス将軍の刎頚の友のフォルトゥナート・エレーラの所有していた競走育成牧場カニャベラルから国が没収した17頭の馬が、三日続きで競売に付されていた。〈さて、次ぎの出品はセネガルです!……売り手側の裁判所は、セネガルが最大の目玉であることを承知して、トリにまわしたのだ。〉 ここまでセネガル Senegal は、〈1956年には八つのレースに出走して1着6回、2着1回、3着1回という成績をおさめ、計16万3904.35ボリーバルを稼ぎ出した。1957年にも八つのレースに出て、成績はまったく同じ、……が、稼いだ金は前年よりさらに多く、31万759.90ボリーバルにのぼった。……これまでの戦績からして、彼が今回の競売の末尾を飾るのは当然のなりゆきだった。たとえセネガル自身がもうコース上で一銭も稼げなかったとしても、馬主たちは喉から手が出るほどこの馬を欲しがるに違いなかった。種馬としてだけでも、セネガルには大変な値打ちがあるのだった。〉 ここでベネズエラの競馬事情について付記しておくと、当初は、アルゼンチン同様、スペイン系南米産馬による短距離競馬(クアドレーラと呼ばれる)を楽しんでいたが、1882年に、所謂、サラブレッドによるイギリス式競馬が始まる。 第一次世界大戦以後、競馬は軌道に乗り、1935年に新ジョッキークラブが設立され、競馬も安定する。南米独立の父と尊称されるシモン・ボリーバルがベネズエラの首都カラカスの出身であるためだろう。シモン・ボリーバル杯クラシックと銘打たれた当地の競馬場で行われる最高賞金レースが創設されたのは、1953年。セネガル Senegal は1957年、1958年とこのベネズエラ最高のレースの連覇を成し遂げていたのである。 競売は、グルステインという流通業者と設立間も無い育成牧場ベネズエラ組合の代表者エンリーケ・スクレ・ベーガとの間で繰り広げられた丁々発止の駆け引きの末、9万7500ボリーバルで、後者の手に落ちる。とはいえ、この額は当初、予測された落札額よりかなり低めだったようで、マルケスは、〈この名馬のほんとうの価値の半分にも満たない金額だった〉と記している。 ところベネズエラ競馬史上最強馬セネガルはどのような血統を持っていたのか。これについてもマルケスはきちんと報告してくれている。〈彼の父親は、アガ・カーンの所有する英国の偉大な常勝馬バーラムだったが、不可解なことに、この馬は自らの傑出した能力を子孫に伝えることができないので知られていたのだ。……バーラムの子のうちの4頭──ミスターグリーク、ナバソン、マウントバッテン、ポランテ──がベネズエラで走ったことがあり、いずれも期待はずれだったからだ。〉。9戦9勝の英三冠馬バーラム Bahram が、両大戦間に英国に出現した最良のサラブレッドであったことは、ほとんど疑う余地のないところで、そのバーラムが1940年米国へ売り飛ばされたときに、英国のサラブレッド生産者が大変憤慨した話は有名だ。が、米国で期待を裏切った後、1946年にアルゼンチンへ渡ったバーラムは、なんとベネズエラで最後の一花を咲かしていたのだった。 さて、そのバーラムは死ぬ前に、ブラウニー Brownie という牝馬(父ラスタムパシャ Rustom Pasha ・母ブラックアロー Black Arrow)に二頭の子供を残した。マルケスの筆に従うと、〈そのうち一頭がプレンダセ Prendase で、カラカスに来て1955年のシモン・ボリーバル杯クラシックに優勝した。そして、もう一頭がセネガルだった。〉 マルケスはこのレポートの最後にカニャベラル牧場に根強く語られてきた疑惑についても言及している。ヒメネス独裁政権下で、何でもやれたカニャベラル牧場が、レースの30分前に馬の血管内に一定量のアルカロイドを注射する一種のドーピング行為の常習犯だったのではないかというのだ。 果たして革命ベネズエラの政権下で種牡馬となったはずのセネガルのその後がどうなったのか。それを調べることは、マルケスの問いにも答えることになるが、残念ながら今の私にはやや手に余るテーマだ。いずれじっくり取り組む所存である。 今はただ、わが国でも直仔パーシアなどが輸入され、満更縁がなくもない名馬バーラムの最後の傑作にまつわる物語を後のノーベル賞作家の筆で読むことのできる倖せを噛み締めたいと思う。 付記 セネガルの母の父はマルケスも記す通り、サンインロー系種牡馬ラスタムパシャ。ラスタムパシャといえば、名種牡馬チャイナロックやラヴァンダンの母の父としてわが国でもよく知られた存在だ。ラスタムパシャとハイペリオンのニックスは有名で、チャイナロック、アバーナント Abernant(スティールハートの母の父)などその組み合わせの成功例は少なくない。 一方、バーラム×ラスタムパシャというと、ネヴァービート×チャイナロックあたりが思い当たる。ネヴァービートは母の父がバーラムの直仔のビッグゲイム。名繁殖牝馬の道を歩んでいるコランディアガール(オースミシャイン、マジックキスの母)がその成功例に挙げることができる。 ちなみにセネガルの祖母ブラックアロー Black Arrow は、アルゼンチンのグラン・プレミオ・セレクションなどのG に勝った名牝。Magia から Mandarine 、Meridian を経て、Noonday に到達する(ファミリーナンバーは1−h)。Noonday の妹から、本邦輸入種牡馬アンバーラマやファストトパーズなどが出現している 初出:『競馬通信大全』14号 1998 年5月 |