第20話 大馬主サッスーン卿の上海

 きっかけは、一冊の書物だった。
 先日、仕事で出かけた上海で、文学歴史関係の専門書店に立ち寄ったときのこと、何気なく手に取った本を、ぱらぱらめくっていた私の眼は、あるページで釘付けになった。
『老明信片・建筑篇』(上海画報出版社)という、中国各地の第二次世界大戦以前の古い絵葉書を収集した本の中に、上海の 「賽馬場」すなわち競馬場のカラフルな絵葉書が収められていたのである。

 そこには優美な時計台を持つスタンドや周囲の摩天楼建築群と一体になった上海競馬場の姿が、鮮やかに描かれているではないか。
 早速、代金の 110 元を支払い、宿のホテルオークラに戻って、念入りに眺め直すと、上海以外にも、漢口(現武漢市の一部)の競馬場の絵葉書までが収録されている。
 偶然にも、今回のツアーは、上海の前泊地が武漢で、競馬場の跡地の中山公園も見学したばかり。戦前の中国各地の居留地では、かっての横浜や神戸同様、競馬が行なわれていたことを改めて思い知らされたのだった。

 そういえば、日本の競馬の歴史については、かなり念入りな論究がなされ、居留地の競馬事情についても、相当明確になりつつあるようだ。

 が、同じ居留地でも、上海と横浜や神戸では、月とスッポン、まるで規模が違う。横浜や神戸でミラのような伝説的な名牝が存在したのなら、上海ではさぞかし、豪華絢爛、遥かに洗練された競馬が行なわれていたに違いない。

 戦後、中国が共産化し、繁華街のど真ん中にあった上海の競馬場こそ、消滅してしまったものの、一体、そこでどんなシーンが展開していたのか、俄かに興味をそそられ始めたという次第なのである。

 で、帰国後、鵜の目の鷹の目、適当な文献はないかと、探し回ってみたところ、数年前、新潮社から上梓された『上海 魔都百年の興亡』(ハリエット・サージェント著/浅沼昭子訳)という本の中に、重要なヒントとなる記述を見出すことができた。

 著者は英国の女性ジャーナリストで、文革終結直後から十数年間、かっての租界に暮らした人々へのインタビューをもとに上海(1842 〜 1949)を炙り出した労作である。
 が、その中に、租界時代の上海競馬の模様が点描されているのである。

<競馬場の用地は、上海のごく初期の都市計画図にも確保されている。外国人は租界にやってきた一八四四年から、競馬を開催した。涼しい季節に、土曜日の午後二時間の熱戦を繰り広げたのである。記録に残っている上海初の競馬は、一九四八年四月十七日と十八日に開かれた。>

<それは楽しい、非公式のレースであったらしい。
……乗馬賞では、モンゴルの小馬独得のローマ人の鼻をした 「ローマンノーズ」が顎を突き出した 「キスミークイック」に勝った。
……最後のレースの中国人騎手による地元賞では、騎手のほとんどが馬丁だった。かれらは中国の騎兵の服装で、鈴をつけ、高い鞍と、竹の鞭を用いた。勝ち馬には、なんと、ロンドンの馬市場にちなんだ 「タタソール」という名前がついていた。>

<早くも一八六一年には、春と秋の競馬は 「上海のグランドフェスティバル」といえるものに発展していた。会社はすべて一週間休業し、中国人も外国人も最高に着飾った。……賭博は、大金が懸かっていたとはいえ、控え目に行われ、正面観覧席の一隅で若者が帳簿係を務めた。>

 以上の記述によって、やはり予想したごとく、横浜や神戸で開かれていたような中国馬ポニーによる居留地競馬が、長期にわたって続いたことが分る。

 やがて <競馬は上海実業界の重要な一部分となり、人々が富を誇示> する場となる。
 ジャーデン・マセソン商会とデント・ビール商会といえば、横浜の居留地でも中心を為した英国資本だが、ここ上海でも当然ながら、アヘン貿易を核に根をおろし、<お互いの対抗意識を馬に託して競い合った> という。

 ジャーデン・マセソン商会が雇い入れた有望な騎手エリック・クーミンは、一九四九年以降、香港に移って、ハッピー・バレー競馬場のスチュワードになり、同時に建築家として有名になった。
<彼は香港の競馬が上海の伝統を受け継いでいることを示す、生き証人である。> とサージェント女史は叙述しているが、これもまた興味深い研究テーマに違いない。

 さて、一九三一年、そうした上海租界の名士録を一層、華やかにすべく、一人の富豪の名前が加わる。

 サー・ヴィクター・サッスーン Sir Victor Sassoon といえば、競馬の世界で忘れ難い大馬主である。
 なにしろ、宰相になるより難しいといわれるエプソム・ダービーにおいて、彼の勝負服を着用した馬たちが、わずか7年の間に、ピンザ Pinza(1953)、クレペロ Crepello(1957)、ハードリドン(1958)、セントパディ St.Paddy(1960)と四度も制覇したのだから。

 そのサッスーン卿の愛馬には、ほかに 1937 年のオークスと 1000 ギニーを勝ったエクシビショニスト Exhibitionist 、1956 年の 1000 ギニー馬のハニーライト Honeylight があり、1953 年、1960 年の二度、英国のリーディングオーナーの座に君臨している。

 このうちハニーライトとクレペロは姉弟関係にあり、どちらもサッスーン自身が生産したことで知られる。サッスーン十八番の血脈だった。

 戦後の英国競馬界で華やかなスポットライトを浴びることになるサッスーン卿。
 その彼が、1931 年〜 1941 年の十年もの間、上海に滞在していたという。
 その間、上海に及ぼした影響力は相当なものだったようだ。

 ほんの一例を挙げれば、サッスーンの建てたキャセイ・ホテルはいまもなお、和平飯店と名を替え、バンド地区に栄華の跡を留めるかのように、燦然と聳え立っている。『上海』にはこう記述されている。

<彼が上海に移るまで、サッスーン帝国の中心であったポンペイに住み、インドの立法議会に席を連ねていた。一九三一年、彼はインドを去り、事業を引き払う意向を公表した。このほとんど伝説的な人物の到来は、上海にさまざまな憶測を呼んだ。競馬一レースに一万ポンドを賭けるといわれている人物は、どのような商談を進めるのだろう。>

 キャセイ・ホテルの最上階のペントハウスは、たちまち上海社交界の中心の場となり、そこでは夜な夜な仮装パーティが開かれたという。
 そこにはロバート・ロスチャイルド卿や、マセソン商会のトニーケズウィックらが常連として顔を出した。

 また大変中国人との “交際” にも熱心で、<多数の女性を囲って>いて、<最終的に、自分の看護婦と結婚>したという。

 そのサッスーンには、こんな言葉が残っている。
 いわく、「ユダヤ人よりも偉大なレース Race(人種と競馬をかけている)は一つ、ダービーしかない」。
 なるほど、いかにも四度もダービー馬のオーナーとなった人物の言というべきだろう。

 また上海を離れて五年後の一九四六年、キャセイ・ホテルにもどってみたサッスーンは、そこにこんな光景を見出す。
<ボイラーとラジエーターをすべて、日本軍によって屑鉄用に取り外されたあげく、アメリカ軍の宿舎になっていて、彼のスイート・ルームはウェディマイヤー将軍の居室になっていた。>。

 それからさらに三年後、上海の街は共産軍の支配するところとなる。
 サー・ヴィクター・サッスーンは中国におけるほとんど全財産を失ったのである。
<彼はそのニュースをアメリカで聞いて、「まあ、仕方がない」と、一息ついてから言った。「私はインドを見離したが、中国は私を見離した!」>


初出:『競馬通信大全』27号  1999 年7月