歴代イギリス・ダービー馬の名前の意味 (1960-1961)

1960年 St Paddy ( c 父 Aureole 母 Edie Kelly )

  St Paddy というのはどうも特定の人物のことではなさそうだ。
  Paddy というのは幾つか意味があって、「米・稲・水田」と「不機嫌・激怒」さらには「アイルランド人(愛称または蔑称)」となっている。
 最後のアイルランド人というのは、アイルランドにパトリック Patrick という名前が多いことからで、これからすれば、アイルランドの守護聖人セント・パトリック St Patrick を親しみを込めて呼んだのかもしれない。「聖パトちゃん」とでも言うところか。
 もちろん他の「米聖人」でも「怒り大明神」でも良いのだが、母親の名前が何を意味しているか皆目分からないなど、手掛かりが少なすぎるので、これ以上推測のしようがない。

 その母親 Edie Kelly は明らかに人の名前だが、誰の事だか分からない。 Edie というのは女性の名前で、原形はエディス Edith 、古い英語で「強い戦い rich war 」を意味するそうだ。
 ちなみに、男性の名前で良くあるエドワード Edward は、「強い守り rich guard 」だそうで、何となく男生と女性が逆のような気もするが、これが元の意味である。
 エドワードの愛称は Eddie で、 d が一文字多い。その又母親の Caerlissa も意味不明。おそらく人の名前であろうが、これは両親の名前を捩っていることは確かである。
 父親が Caerleon で、 Nijinsky の子供にも同名の馬がいる。 Caerleon は地名で、英国のウェールズ地方の小さな町。なぜこの町の名前が何度も馬に付けられるかというと、ここはアーサー王伝説の地で、アーサー王はこの地で戴冠式をしたからである。
 現在では通常、カーリアンまたはカーリオンと日本では書かれるが、以前はカールレオンとも呼ばれていた。どれが本当に正しいのかは古い言葉なので分からないそうだ。この Caerleon から Caerl の部分がそのまま子供に受け継がれている。
  Caerlissa の母親は Sister Sarah 、後に Nearctic やノーザンテーストに繋がっている母系なのでご存知のかたも多いだろう。
  Sarah はヘブライ語の「貴婦人・王女」を表わす言葉で、旧約聖書ではアブラハムの妻であるサライ Sarai で、後に神がサラ Sarah に変えたとされている。そのスペイン語の形が Sarita で、 Sister Sarah の母親の名前という関係である。
  Sister の方は当然修道女の意味で、これはその父 Abbots Trace の Abbots からきていて、修道士のことを表わしている。ここから St に繋がっているとも考えられるが、これには父親も関係している。

  St Paddy の父親は Aureole で、意味は「(天国からの)報償・後光・光輪」のこと。 Nimbus や Halo と似たような意味である。
 ひとつはその父が Hyperion で、ギリシャ神話の太陽神からだが、母親も Angelola で、天使のイメージがある。
 但し、 Angelola という言葉が検索でどうしても見付からず、 Angelolatry というエンジェル崇拝というような意味の言葉はあるので、イタリア語でなにかそうした意味を持っているのであろうか。
 これはその父 Donatello と母親 Feola からの連想であろう。 母親 Feola はイタリア系の人の名前であるが、これは良く見るとその母 Aloe「アロエ」のスペルをひっくり返し、父親 Friar Marcus の頭文字をくっ付けたものである。そういえば、この Friar も修道士の意味である。

  2 歳時は 2 戦し、緒戦では 1 番人気を裏切ってしまったが、2 戦目は 5 馬身差で勝って、評判の高さを裏付けた。
 翌年は2000ギニーからのスタートで、 6 着に敗れるも、続くレースで快勝して、 3 番人気でダービーとなった。
 フランスの Angers が 1 番人気で、続いてはアイルランドの無敗馬 Die Hard 、3 番人気には、 St Paddy の他 Tulyartos 、Kythnos といったところが並んでいた。
 しかし、すでにアイルランドの Exchange Student は、エプソムでの調教中に骨折して戦線離脱、Vienna は、かのチャーチル卿の持ち馬だが、装蹄師のミスにより出走取りやめになっていた。

 当日は良い天気の日であったが、不運な出来事は当日にも発生した。
  1 番人気の Angers は、 6 ハロン通過した辺りで後方に待機していたのだが、球節を骨折してしまい、予後不良となってしまった。
 直線に入ったところで、リードしていた Tudor Period が捕まって Die Hard が先頭、続いて Auroy 、Tulyartos 、St Paddy の態勢となる。
 残り2ハロンのところで Die Hard も疲れて、 Auroy が替わって前に出るも、その直後 St Paddy が一気に交して、そのまま押し切って優勝した。
  3 馬身後方で、良く追い込んできた Alcaeus が 2 着。固い馬場で走るのを嫌がり、タテナムコーナーへの下りでも突っ張っていた Kythnos は、直線に入って漸く本領発揮し 、3 着になった。

  St Paddy は、その後 2 戦 1 勝ながら、もうひとつ精彩を欠いていたが、セントレジャーでは Die Hard や Vienna に楽勝した。
  4 歳になっても活躍して、エクリプス S を快勝したが、直後のキングジョージで敗退するなど、強さの割に取りこぼしの目立つ戦績となった。

 種牡馬としては、エクリプスSを勝った Connaught やジャパンカップに勝った Jupiter Island(ジュピターアイランド)などがいて、それなりではあるが大成功とまでは言えない成績である。
 ダービー出走馬の中には、その後日本で種牡馬になって活躍した馬が何頭かいる。
  Die Hard(ダイハード)は 1962 年に日本に来て、多くの重賞馬を出した。超大物はいないがコンスタントに活躍馬を出し、1978 年に死亡した。
  Tulyartos(タリヤートス)は、 1961 年に日本に来て、これもコンスタントに活躍馬を出したが、1967 年に死亡した。牝馬の産駒ハヤフブキは、その後オークス馬タケフブキ・ダービー馬タケホープの母親になっている。
  Tudor Period(テューダーペリオッド)も多くの活躍馬を出して 、1987 年に死亡した。菊花賞のハシハーミットや宝塚記念のハマノパレードが、その代表と言えるだろう。

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 1961年 Psidium ( c 父 Pardal 母 Dinarella )

  Psidium というのは、南洋植物でジュースなどにするグァヴァ Guava の別名である。

 両親の名前を見ても、特に意味の繋がりは無さそうで、単に父系が代々 P で始まる名前になっているということだけのようだ。

 その父親 Pardal は、ポルトガル語に「すずめ」という意味があり、おそらくこの意味だとは思うが、フランス語や英語などでは似た言葉として Pardale とか 、Felis Pardalis という単語があって、これは山猫のことを指している。 
Leopard(レパード・豹) の後半部分だと思って頂ければ良い。こちらの方が精悍な感じがするが、これも血統上での意味の繋がりは特に無く、証拠不十分というところ。

  Pardal の父系は有名な Pharis - Pharos - Phalaris - Polymelus と繋がるラインで、以前にもご紹介したかもしれないが、簡単に触れておく。
  Polymelus はトロイ戦争の戦士の名前、 Phalaris はギリシャ時代のシシリー島の暴君、 Pharos はアレキサンドリアの湾内にあった燈台、 Pharis はギリシャの地名で、スパルタの近くにある。
 こうしてギリシャ関係が並ぶので、 Pardal の祖母 Helen de Troie 、すなわちトロイのヘレンとの繋がりが面白い。
 なお、間にいる Pardal の母 Adargatis というのはいかにもギリシャ神話に出てくる人の名前のようで、色々調べて見たのだが、どうも見つからない。思い込みすぎなのだろか。

  Psidium の母 Dinarella は、これまた良く分からないが、おそらくイタリア人の名前であろう。
 その父 Niccolo Dell'Arca は、イタリアルネッサンス初期の有名な彫刻家の名前で、生きていたのが 1462-1494 年というから、 32 歳で早世したようだ。
 母系の方もどうやら、イタリア系の言葉が並んでいるが、手元の辞書や検索だけでは、なかなか見付からなかったので省略する。

  Psidium は、2歳時7戦して1勝で、しかも勝ったレースは4頭立てということもあり、クラシック戦線に乗れるかどうかギリギリ、有り体に言えば2流の評価であった。
 翌春は、 2000 ギニーのトライアルからスタートして 3 着になるも、本番の 2000 ギニーでは 22 頭立ての 19 着、続いてフランスに行って 4 着となり、ダービーに出てきたものの、 67 倍見当のオッズは妥当なものであろう。

 ダービー当日は暖かな日で、1 番人気はフランスから遠征の Moutiers 、2 番人気はダービートライアルを快勝した Pardao 、以下 Just Great 、Time Greine 、Dicta Drake 、Sovrango などが続いた。

 レースは、タテナムコーナーで Supreme Verdict が先頭、Patrick's Choice と Dual がそれに続いて、この時には Psidium は殆ど最後方の位置、その 2-3 頭前に Dicta Drake がいた。
 残り 2 ハロンとなって、 Dual が一旦先頭に出るも、すぐに今度は Cipriani が取って代わり、それを Pardao と Dicta Drake が追う。
 残り 150 ヤードで、ついに Pardao が前を捉え、先頭に出たが、さらに今度は Dicta Drake がこれを交わした。
 しかしそこに、大外からすっ飛んできたのが Psidium で、実況ではゴールの瞬間にしか名前を呼ばれなかったようだ。
 余りの逆転逆転に、場内は大興奮したものの、勝ち馬の名前を聞いてしばし沈黙に包まれたという。
 ブックメーカーのオッズは 67 倍だったが、トート Tote では単勝 90 倍、複勝 25 倍の払い戻しだった。

「公式記録の着差は2馬身」とマイケル・チャーチが書いている。わざわざ「公式記録」と書いたのは、見ていた人達にとっては我が目を疑うばかりの出来事で、着差がそれほどあったという印象が残っていないのだろう。
 私にとってみれば、レッツゴーターキンが同じように二転三転した秋の天皇賞を勝った時、2着ムービースターと 1 馬身 1/2 もの着差があったと言われても全く思い出せないのと同じであろうか。
 2着 Dicta Drake 、3着 Pardao で、この間は首の差であった。なお、1-3 着の馬のオーナーはいずれも女性である。

 ダービー後 Psidium は、調教中に故障して引退、種牡馬となった。
 セントレジャーとアイルランドダービー馬の Sodium を出すも、種牡馬としては失格の烙印を押され、1970 年にアルゼンチンに渡っていった。

 この年もダービー出走馬がかなり日本に種牡馬として入っている。
 2着になった Dicta Drake(ディクタドレーク)は、 69 年から供用、77 年に死亡した。何頭かの重賞馬を出すも、案外な不振であった。

 直線一旦は先頭に立った Cipriani(シプリアニ)は、ダービー馬のヒカルイマイや天皇賞・有馬記念の勝ち馬女傑トウメイ、桜花賞馬アチーブスターを出したことで知られる。63 年から供用されて 73 年に死亡。

  Bounteous(バウンテアス)は、 70 年から供用、 85 年に引退したが、直子では障害のバローネターフが有名である。牝馬の産駒ユアースポートは後にダービー馬のダイナガリバーを生んでいる。

 1番人気だった Moutiers(ムーティエ)は、66 年から日本で供用、76 年に死亡しているが、この間、皐月賞・ダービーのタニノムーティエ、菊花賞のニホンピロムーテー、天皇賞のカミノテシオなど大活躍した。
 牝馬の産駒では、自身重賞勝ち馬でもあるレデースポートが、オークス馬テンモンの母となり、ナポリジョオーが、皐月賞・菊花賞・天皇賞のミホシンザンの母となった。

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参考文献・資料・検索サイト・辞書
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「世界の名馬」(原田俊治著、サラブレッド血統センター 1970)
「伝説の名馬 I 〜 IV 」(山野浩一著、中央競馬ピーアールセンター 1993〜1997)
「サラブレッド血統事典」(山野浩一・吉沢譲治編著、二見書房 1996)
「競馬学への招待」(山本一生著、ちくま新書049 筑摩書房 1995)
「20世紀の種牡馬大系」(早野仁著、 競馬通信社 2000)