第1回 バタヴィア  Batavier

 幕末期に始まった日本の競馬の歩みを明治20年代頃までたどっていくと、かなわぬ夢ではあるが、この時代に活躍した馬たちの子孫が、現在も競馬場を走っていると、どんなに楽しいかと想像するときがある。
 そうであったなら、今では全く忘れさられ、血統的にも失われてしまっているが、たとえばバタヴィア、サムライ、タイフーン、鎌倉、岩川、墨染、英(ハナブサ)、白雲、ダブリン、日光、ヤングオーストラリアなどといった馬たちの物語が、寓話も含めて語り継がれていたかも知れないからである。

 この時代の競馬の主な担い手は、日本馬と中国馬だった。
 しかし日本馬は、競走馬としても軍馬としても、血脈の総入れ替えの対象とされていて、早くも明治20年代には競馬場からほとんど姿を消している。
 中国馬も元々せん馬で、しかも日本側の競馬からは当初から排除され、横浜や神戸の居留民たちの競馬だけでしか走ることができなかった。
 また明治10年代から登場した雑種馬−−日本馬の牝馬にトロッターなどを配合した馬も、日露戦争後、サラブレッドやアラブ、豪州産馬が登場してくると消えていく運命だった。

 したがって、もし「名馬の物語」には血統の継続が必要だとすれば、幕末から明治20年代半ばまでの競馬で活躍した馬たちを語ることには、現実的意義は全くないことにはなる。
 だがそれでも、現在の日本の競馬が、この時代に始まり、それを継承して存在している限り、「主役」であった馬たちを、私たちの間から失ってしまってよいということにはならないと思う。

 この時代には、新聞などの断片的な資料しか残されていないので、それらを繋ぎ合わせていくことしかできないが、それでも、かなり鮮明なイメージを結ばせる馬たちが存在している。

 まずは 1860 年代の日本馬からはじめて、明治20年代まで時代を下っていきながら、そういった馬たちの蹄跡を追ってみたいと思う。
 一番手には、「文明開化に馬券は舞う」の6回、7回にも登場したバタアヴィア Batavier を取り上げたい。

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 すべての相手に負けなかった小さな馬のバタヴィアが、
  初めて自分の体内にある力を示したレースだった。
   この馬の向かうところ、勝利は容易だった。
           J.R.ブラック『ヤング・ジャパン 横浜と江戸 I』
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 これは、 1862 年 10 月1、2日に行われた秋季開催の初日第3レース、横浜ダービー Yokohama Derby の描写である。レースは、賞金 150 ドル 、距離は3周 1dis =約 3700 m

、3頭立てで行われた。
 バタヴィアは、この年の5月1、2日に行われた春季開催でも、勝鞍をあげていたようである。
 体高 13 ハンズ2インチ(約 137 センチ)、名義は、日本最初の西洋式ホテルである横浜ホテルの経営者フフナーゲル Huffnagel だった。
「すべての相手に負けなかった」強さは、よほど強烈な印象を与えていたようで、明治10年代になっても、居留民たちはこのバタヴィアの名を記憶していた。

 なお、バタヴィアとその騎手である E.シュネル Schnel の写真は、ヘルマン・ムースハルト編著/生熊文訳『ポルスブルック日本報告  1857-1870 オランダ領事の見た幕末事情』(雄松堂: 1995 年)の 209 頁に所収されている。

 この年以降は、しばらく組織的な競馬は開催されず、 1865 年2月になってようやく、調練場 parade ground において、横浜駐屯英国軍主催のギャリソン競馬 Garrison Race が行われる。じつに、2年4ヶ月余も中断していたことになる。
 バタヴィアがこのギャリソン競馬に出走したのは、 同年 12 月に鉄砲場 Rifle Range での2回目−−通算4回目の開催からだった。
 バタヴィアはその年の4月に、折から開設された遊歩新道において、中国馬ラット Rat とマッチレースを行い、敗北していたことは、「文明開化に馬券は舞う」第 7 回でふれてある。おそらくこのようなレースを戦いながら、最強の日本馬としての地位を保ち続けていたのだろう。

  12 月のギャリソン競馬のときには、プロシャ人の商人でスイス領事を兼ねていた R.リンダウ Lindau の名義になっていた。リンダウは、熱心な馬主で、厩舎 White and Black Stable を経営し、優秀な日本馬を育て、中国馬の輸入にも熱心だった。

 ちなみにリンダウは、世界中で読まれることになる日本に関する著作を 1864 年にパリで出版しているが、そのなかで横浜の競馬についてつぎのように記している。

「自由地区(居留地)と港の周りに扇形に広がる丘の間に、広い平野が広がっており、そこに大枚を投じて奇麗な競馬場(横浜新田)が作られた。
 ヨーロッパ人社会は、もっぱら休息と東洋的無頓着の敵である若い、活動的な人間から成り立っている。
 彼らは各々馬を一頭は持っており、二、三頭飼っている人も多い。そして太陽が水平線に沈み、その日の仕事が終わるとすぐに、人々はそそくさと馬の鞍に乗り、あるいは独りで、あるいは何人かの仲間と、横浜の近辺を乗り回すのである。
 しかし、いつも早足で馬を進め、競って自分達の、頭のよい、胴の細い、速足の小馬に活を入れるのである。本国におけるのと同じ習慣から、競馬場が横浜では社会生活の必需品の一つであったに違いない。
 それは二年前から開かれていて、春と秋には、外国人社会全体を沸き立たせるお祭りが催される。賭もなされる。イギリス人が持っているいろんな種類のスポーツについての知識の御蔭で、万事高貴な学問の規則に従って、とどこおりなく行われる。
 日本人達はこの競馬の気晴らしに繰り広げられる大胆さと器用さに大いに見とれる。そして正直にこの点に関してヨーロッパ人が勝っていることを認めている。」
(ルドルフ・リンダウ/森本英夫訳『スイス領事の見た幕末日本』新人物往来社  1986 年  140 頁)

  1865 年 12 月開催のギャリソン競馬でバタヴィアは、中国馬との混合戦である第5レース、2マイル・6頭立てのスタンド賞盃 Stand Cup と、同じく混合戦の第6レース、50ドル・8頭立ての日本賞盃 Japan Cup に出走し、1走目は落馬、2走目は3着に敗れる。2戦とも、中国馬最強だったラットの大楽勝に終わっていた。先のマッチレースで敗れた相手である。
 だが日本馬同志ではさすがに強く、翌 66 年3月開催では、日本馬限定の第5レース、2マイル・6頭立てのスタンド賞盃 Stand Cup に出て、10馬身差の大楽勝を収めている。

 また 1867 年 1 月 11 、12 日には、前年 12 月に開設された根岸競馬場において、記念すべき第1回開催が行われたが、ここにもバタヴィアは姿を現す。初日第2レース、6頭立てのサヨナラ賞盃 Farewell Cup に出走し、残念ながらモノグラム Monogram の3着に敗れている。
 だが、いわば黎明期の横浜の競馬の象徴的存在であったバタヴィアが、ともかくも根岸競馬場に登場しただけでも、居留民たちには感慨深いものがあったろう。

 続く5月7、8日の開催では、二日目の第8レース、重量負担賞典 Handicap Plate に出走する。日本馬のチャンピオン戦ともいうべきレースで、賞金 100 ドル 、距離は 1 周 1dis = 1700 m、4頭立てで行われた。
  14 ストーンのモノグラム 、11 ストーンのファフアバラ Faugh a Ballagh、10 ストーン4ポンドのサムライ Samourai に対して、バタヴィアのハンデは 10 ストーンと最軽量で、かつての最強馬の力の衰えを端的に示している。もっとも、他の3頭もぞれぞれ強い馬たちではあった。(註)

 レースは、1着ファフアバラ 、2着モノグラム、3着サムライ、バタヴィアは着外との判定が下される。バタヴィアは最後方から直線するどく追い込み、勝ったように見えたというから、往年の力の片鱗を見せてはいたのだろう。バタヴィアへの声援は大きく、判定には観客からは強い不満の声が起こっていたという。そして、これが記録に残されたバタヴィアの最後のレースとなった。

 記録で見る限り、横浜新田の競馬を除くと1勝しかあげていないにもかかわらず、居留民が折りにふれてバタヴィアを思い起こしたのも、新田での勝ち方が強烈であったとともに、黎明期の横浜の競馬とともに歩んだ馬であったからだと思われる。

(註) 14 ストーン    = 88.9 kg
    11 ストーン    = 69.85 kg
    10 ストーン4ポンド= 65.3 kg
    10 ストーン    = 63.5 kg