ノートの6・競馬百話(19)
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------------------------------------------ (37)どうしたら優秀な馬を生産できるか ------------------------------------------ いったいどうしたら優秀な馬を生産できるのだろうか、ということは生産者にとっては、四六時中、脳裏をさらないことであろう。 だから、生産者は、ああもしてみ、こうもしてみ、という具合に、いろいろと苦心をしてみるのである。そこに生産者の苦心もあるが、同時にまた楽みもあるわけだ。 このことは、外国の生産者とて同じである。 アメリカの競馬雑誌サラブレッド・レコード誌(1973年8月4日号)のポスト・タイムという読者からの通信によるコラムにのった記事は、この間の消息を示すもので、なかなか面白いので紹介してみよう。 イリノイ州のカンザスのW・B・ターバーという人が、次のような主旨の投稿をしているのである。 わたしは、キーファー博士が本誌(1973年7月7日号)にのせた「競走能力の遺伝」という論文を、ひじょうに興味深く読んだが、なかなかむずかしかった。だが、結論のところに、優秀な馬の生産方法は、優秀な馬に優秀な馬を配合することである、とあるのを見て、ひじょうに嬉しい気持になった。この苦心の労作の結論が、ホースマンが数百年間も信じていた、古くて、われわれにおなじみの「もしも、諸君が、優秀な馬を欲するならば、優秀なものに、優秀なものを配合せよ」であったとは、まことに愉快なことである。 だが、わたしは、セレクタリアトのことを考えると、はたと当惑せざるをえないかである。 というのは、以下に述べるような理由からだ。 セレクタリアトが、偉大な馬であることについては、誰も異論はないであろう。そしてキーファー博士によれば、このような馬は、ひじょうに優れた馬同志を配合した結果であるはずだ。 ところが、この馬の父ボールドルーラーは、すぐれた競走馬ではあったが、とびきり上等の馬にクラスづけする人は誰もいないであろう。また、母のサムシングロイアルの競走成績に至っては最低であった。賞金は、ぜんぜんかせがなかったのだ。それなのに、この両馬から偉大なセクレタリアトが生まれた。博士は、これをどう説明するか知りたいものである。 レコード誌の編集者は、この手紙のあとにこうつけ加えている。「古くからいわれている句は、“最良のものに最良のものを配合し最良のものを期待せよ”である」 そしてこの記事の見出しが、「期待(HOPE)を忘れてはこまる」というのである。 (昭和48年10月18日)
(昭和48年10月22日) |