ノートの6・競馬百話(28)
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------------------------------ (55)佐藤繁信さんのこと ------------------------------ 佐藤繁信さんといっても、今で競馬会の若い職員の人たちは知らないかもしれない。 佐藤さんが、なくなったのはいつだったろうかと、中央競馬年鑑でさがしてみたら、昭和43年12月25日のところに次のように出ているのが見つかった。 「佐藤繁信氏(元本会理事)が、東京の慶応病院で脳出血のために死去。享年69歳。27日東京競馬場で葬儀」 だから、佐藤さんがなくなってからもう5年もたったわけだ。これより以前に中央競馬関係の仕事をしていた人、調教師、騎手などで、佐藤繁信さんを知らない人は、一人もいないであろう。 わたしが、今ごろ佐藤さんのことを思い出して、このようなことを書いている のは、次に述べるようなことがあったからである。 先日、競馬会の中堅クラスの職員の人と話し合う機会があった。その時にその人は、ちか頃になって競馬の理論的なことを勉強したいと思うようになったが、現在の競馬会には、佐藤繁信さんのような人がいないので、教えてもらうことができない、と述壊していたからである。 たしかに佐藤繁信さんは、競馬の理論と実際に通暁した大家であった。東大の法科を卒業し、しばらく大学に残っていたが、やがて帝国競馬協会に入り、ヨーロッパに足かけ三年留学した。日本競馬会が創設されるとともにそこに移り、企画課長として、現在の中央競馬の競馬施行規程の基礎をつくったのである。 だから、佐藤繁信さんは、わが国の近代競馬の創設者の一人として、日本の競馬史上永久に忘れられない人なのである。 わたしは、直接に佐藤さんの部下として働いたことはないが、競馬会の先輩として、いろいろの知識を佐藤さんはわたしにあたえてくれた。 終戦後、競馬会の本部がまだ馬事公苑にあったときに、有志が数人あつまって、佐藤さんからニューマーケット・ルール(英国の競馬施行規程)の講義を受けたのも、忘れがたい思い出である。 戦後、外国に出かけていった人はたくさんいるが、現在の競馬会にニューマーケット・ルールの講義のできる人はおそらく一人もいないであろう。昔がなつかしい気がする。今後も、佐藤さんのような競馬の大家は、二度と競馬界に現われないであろう。 佐藤さんは、競馬に関する深い知識を持っていた反面、なかなか頑固で、自説を容易にまげなかった。自分のいうことが、いつも正しいと思っていた。酒が好きで、わたしもよく一緒に飲んだが、ある程度飲むとねてしまう誠によい洒だった。 (昭和48年12月5日)
(昭和48年12月6日) |