ケンタッキー牧場巡り・その9 キーンランドの朝

 旅行もいよいよ最終日になった。
「常連」氏は最初、BCの後キーンランドのノベンバー・セールをご覧になりたいとお申し出があったのだが、私の日程の都合で、結局はBC翌日に皆帰ることになった。
 それで、最終日の朝は特に何も予定を入れていなかったのだが、どうせ空港に行くのであれば、キーンランドを覗いておこうというので、急遽当日の朝食事中に決定し、大急ぎでホテルをチェックアウトして、キーンランドに向かった。

 キーンランドは、空港の隣にある競馬場兼セリ市会場である。競馬場としては、開催が春秋のごく限られた時期に限定されており、比較をしても仕方がないが、イギリスのアスコットのような存在に近いと言えるかもしれない。
 ここはルイヴィルのチャーチルダウンズとも違って、林の中にあり、駐車場もコンクリートで固められたようなところではなく、木陰の間に停めていく。
 スタンドも石造りで、スタンド裏も大学か何かの中庭のようになっており、通常の競馬場のイメージとはだいぶ違う。

 セリ会場は、駐車場から見るとスタンドに向かって右側にある。そのセリ会場の裏手には馬房があって、当日はセリのために多くの馬たちが、すでに準備をはじめていた。
 そうした中を、特に目的もなく歩いていると、早くも購買者らしき人達がそこここにいて、各馬房では準備に忙しく働きながらも、注文を聞いて馬を引き出して見せていた。
 我々にも、何か見たい馬はいないのかと声が掛かったが、セリ名簿すら持っていないので、全て断って、他人が頼んで引き出された馬などを見ながら、ただふらりふらりと歩いていく。
 有名な馬の兄弟や近親には、馬房に「xxの弟」だとか、「○○の娘」などと看板が掛けられているものもあるし、各馬は血統がそれぞれの馬房に書かれているので、何も持たずに歩いていても、それなりに興味をもって眺めていられる。

「ここに、今朝もっと早く来れば良かったですね。」と残念そうな「常連」氏。
 飛行機の時間が迫っているので、「クイズの帝王」氏をキーンランドに残して、ご夫妻を空港にお送りする。
「翌年はニューヨークで地元ですから、今回のように、道に迷うことはありません。多分...」と、自信喪失している身としては、それだけ言うのが精一杯であった。

 キーンランドに戻ってくると、「クイズの帝王」氏がとても興味深そうに、あちこち眺めながら歩いていた。
 彼とは今回が全くの初対面であったが、様々な話が出来てとても楽しく嬉しかった。それほど雄弁というわけではなく、しかも自己主張を、それほど強く出してくるタイプでないので、どちらかというとおしゃべりは私ばかりがしていたような印象もある。
 それでも、彼がぽつぽつと話している言葉の端に感じる「こだわり」や「主張」には、若さと勇気と戸惑いと信念が散りばめられていて、聞いていて心地よさがある。
 上手く表現できないが、昔の自分ないしはどこかに置き忘れていた自分、そういうと、やけにセンチメンタルに聞こえてしまうが、そうではなく、自分のなかに何ともいえない「温かみ」と「ささやかな充実感」が沸いてくる、そのような気分になっていたのである。

 具体的な内容を書かずにこのように述べても、何のことやらお分かりにならないと思うが、具体的な内容は全く様々で、それは第三者が聞いても、「それで?」ということが多く含まれている。
 人の会話というものは、その内容が第一であるけれども、内容プラスその人の人となりを感じるということがもう一つのとても大事な要素であり、今回は丸3日間一緒にいて、その中から感じたことなのである。

 あえて、幾つかの内容について触れておくと、「競馬の文化博物館」を北海道のどこか、できれば千歳の近くに作ったらどうかという話。
 優良な競馬書籍というものが、そのマーケットの小ささから、なかなか世の中に出てこないし、多く私蔵されているという話から発展したものである。
「常連」氏が、かなりの蔵書をお持ちになっていることは既に触れたが、ご夫妻にはお子様がまだ無くて、「自分が死んだらこの書物どうしようか」などと話されたので、一気に「博物館・図書館」にまで話が行ってしまった。
 しかもそれを、WEBで公開していく。
 さて日本の競馬が、その博物館・図書館を作るまでに、成熟しているのかどうか、「もきち倶楽部」のような活動が、どこまで続けられるのか。
 頭の中だけでなく、実行に移す時の問題点、差し当たっての立ち上げ費用から、維持するための人・物・金。
 私が生きている間に実現する可能性は分からないけれども、「クイズの帝王」氏が私位の年齢になった時に、少しは話が進んでいればと思う。

 その他、「北海道競馬振興策」といった競馬の話題もさることながら、「彼の現在の組織上の悩み」、「アメリカ・インディアンを駆逐したのは農民である」などの、まるで分野の違う話もだいぶやった。

 もう一つだけ書くと、「アメリカと日本の馬券システム」の話。
 物事の是非ではなくて、日本は「現物主義」「現地主義」であるということ。これは表面的に見えていることから、私が想像していることだが、概ね合っていると思う。
 日本の場合、馬券は所持者の馬券に「記載」されているものが正であるということで、コンピュータのシステム上もそうなっているはず。
 万一コンピュータの情報と馬券の表記が違っていれば、馬券表記(改ざんされていなければ)が優先されるはずである。アメリカの場合には、システムの考え方としてコンピュータの記録が正である。

 何をいっているのかと言えば、日本では馬券が磁気式になっていて、その中に必要な情報が全て磁気で記録されるが、アメリカの馬券は中央のコンピュータからのアウトプットに過ぎず、コンピュータとのやりとりは馬券の識別番号だけである。
 これによって、新種の馬券が発売されても、端末側のシステム変更はなく、新種馬券の発売が容易だが、日本では馬券に書き込むフォーマットから端末側の処理まで、いろいろ手数がかかり、簡単に作り変えが出来ない。
 そのためインターネット上にシステムを展開する時にも、デザイン上問題になるし、地方や海外との交流馬券を考える上でもネックになる。
 これは様々な要因でデザインされたものなので、一概に巧拙などは言えないが、これから変化に対応しようとする上では、日本の馬券システムは障害が多く、厳しい状況になるということは間違い無い。
 早くデザインの変更と、「現物主義」の考え方の変更をしなければならないが、おそらくこれは、JRAや日本の競馬という「お役所」的な体質からすれば十年以上の単位の話で、かなり厳しい現実が待ち構えていると思われる。

「クイズの帝王」氏は、やはりキーンランドが気に入ったようすで、「いつかは分からないが、必ずもう一度来たい」ということを語っていた。彼を空港に送って行き、再開を約して別れた。

 自分の帰路は、クリーブランドの接続便を確認したらば、3時間待ちではなくて、30分への変更可能であるというので、それに変えてもらい、自分も帰途に就いた。
 飛行機に乗って、しまったと思うことが一つあった。トイレに行っておけばよかった、この飛行機は小さくてトイレがない。でもまあ接続のクリーブランド空港では、行きに散々歩き回って分かっているし、クリーブランドまでそれほど時間が掛からないのでと思ったのだが、そうは問屋がおろしてくれない。
 クリーブランド上空で旋回をはじめ、着陸許可待ちだとというアナウンス。おまけに、次の接続の飛行機までの時間が少ないので、余計に気が焦る。
 ついに20分ほど遅れて着陸したので、とにかくニューアーク行きの飛行機に飛び乗るべく、猛烈ダッシュ。エスカレーターや動く歩道を縫うように、それこそ人を弾き飛ばさんばかりにして走って走って、最終搭乗案内などを聞きながらも、「最後まで脚力が持ったのは、チャーチル・ダウンズでの訓練の賜物だな」などと考えながら、ゲートにたどり着き、結局最後から2人目に搭乗して間に合った。
 漸く席について、思い出した「トイレ...」。
 後はひたすらに早く離陸をして、安定飛行に移ってくれることを祈っていた。その長いこと....

 後日「クイズの帝王」氏から、e-mail が届いた。曰く「カメラの脚立をどこかに忘れました。ひょっとして車の中に残っていなかったでしょうか...」。
 レンタカー会社にも聞いてみたが、返事は来なかった。
 まさか、私と3日間も一緒にいて、私は前途有望な若者に「ボケ」を移してしまったのではないだろうか。もしそうだとすると、日本の競馬界に多大な貢献が出来たかもしれないのに、私が芽を摘み取ってしまった可能性もある。

「狂牛病」ならぬ「狂健病」、アメリカ東海岸方面にお立ち寄りの特に若い競馬ファンは、くれぐれもご注意頂きたい。帰国の際検疫で止められても、当方は一切関知出来ないのでそのつもりで。